ここのところ、大学受験の頃のことをよく思い出す。まぁ、毎年この時期は思い出しがちなんだけど、どうも今年はやたらと濃密に思い出す。なのでちょっと書いておこうと思う。
1982年(昭和57年)2月、私は東京都立富士高校の3年生であった。当時の学区区分でいうと第3学区第32群。西高(同じく32群)と富士高といえば、一応第3学区ではイチバン偏差値が高い学校であり、大学進学率、とりわけ有名国公立大有名私大への進学率の高い学校だった(余談だが、西高は現役合格率が高く、富士高は一浪の進学率が高かった(笑))。で、私はと云うと、そんな学校にいながら決して成績が良かったわけでは無かった。もうね、高校生活が楽しくって、部活やら生徒会やら、あとは絵ばっかり描いていて、勉強はあんまりやらずにそんなことばっかりやってた(笑)。毎度の試験にはほとんど一夜漬けで公式とか基本の基本だけ暗記していって、あとは問題前にしてそこからいろいろ構築を試みる、というスタイル。で、ほぼ惨敗(爆)。そんな生徒であった。成績はあんまり芳しくはなかったけど、何より富士高校が大好きだった。3年間好きなことばっかりやってたおかげで、とってもたくさんの人たちやモノたちに出会い、今の私のほとんど部分はここで形成されたんじゃないかな、と思うのだ。
で、3年生。大学受験である。すでに1年生の後期に国公立文系コースを選択してた私だったが(2年生の学科選択の際に選ぶコースで、3年生の頃にはなんか大学ってどうでも良くなってたんである。大学行って何勉強するんだろう?、と。まぁ、若者にありがちな展開ですな(笑)。だが親の手前、大学には行っておいた方がいいだろうし、自分にとっても、この先何を目指し何をやろうとするにしても、大学に行っておけば4年間は執行猶予期間かな、とかは思っていた。かといって、あんまり興味の持てないことには走れないし、闇雲にレベルの高い大学を目指そうとかすでにそんな情熱はない。ただ、映像には興味があった。そもそものアニメ好きはそれがきっかけで映画やドラマ好きではあったのだ。で、日本大学芸術学部映画学科を受験することに決めるのである。
そう決めたのは3年の文化祭が終わったあとだったと思う。だが、それですぐ受験モードに入ったのかというと、いやはや全然だったのだ。今でも体質としてそうなんだが、なかなかスイッチが入らないのだ。スイッチが入ってしまえば、それからの集中力は大したものなんだけど、どうにも切替らなくって、相変わらず本ばっかり読んで絵ばっかり描いてたのだ。その有様は暮れまで続くことになる。で、年が明けた。1982年、昭和57年である。正月三が日は例年通りのお正月であったのだが、その3日の夜、突然スイッチが入った。何がきっかけだったのかわからないんだけど、その夜から一心不乱に受験勉強である。毎日の睡眠時間は4〜5時間、それ以外の時間は全部勉強であった。怒濤のような日々(笑)。で、ちょうど一ヶ月たった2月3日、これまた突然ピタッと受験勉強を打ち切ってしまった。理由はなんだったんだろう?さすがにそれは忘れちゃったんだが、その日から試験当日までまったく勉強をせずに、SF小説とあだち充のマンガばっかり読んでいたのだった。
2月9日、入学試験(一次試験)。朝のNHKのニュースでは前日(2月8日)の未明に発生したホテルニュージャパンの火災についての報道がトップだった。それをちょっとだけ見て、中野の実家(当時)から地下鉄、JR、西武池袋線と乗り継いで江古田へと向かった。その日の朝から新しいSF小説の文庫本を1冊読み始めた。J.P.ホーガン「星を継ぐ者」であった。江古田駅からキャンパスまでの道端で映画学科の学生製作の新聞みたいなものを手渡された。会場に入って着席してからそれを見ると、この学科を卒業した著名人を何人か紹介したものだった。そしてその第一面を飾ってたのがガンダムの富野喜幸(現・由悠希)監督だったので笑った。
私が受験したのは芸術学部映画学科監督コース。一次試験は2課目。国語と外国語(英語)であった。一次試験の合格者は二次試験に進み小論文のテストと面接試験を受ける。さすがに緊張(笑)。国語と英語、どっちが先だったのか忘れた。だが、どっちも大した難度ではなく、正直言ってちょっと拍子抜けであった。実はこの時点で「ああ、一次は通ったな」と確信していた。自己採点で英語はたしか満点取れていたと思う。試験の間の時間は「星を継ぐ者」がおもしろくってむさぼり読んでいた。そんなこんなで、あっという間の一次試験であった。結果は2日後くらいに発表だった。まぁ、とりあえずは終了である。ああ、この心地よい開放感!(笑)帰りの電車で「星を継ぐ者」を読了。さわやかな気持ちで新宿に降り立つと、アルタ前で新聞の号外が配られていた。それは、日航機が羽田沖に墜落したという報せであった。空は快晴。風は冷たかったけど、陽射しは暖かく心地よかった。
それが1982年2月9日であった。
後日合格発表。予想通り無事通過。で、翌日が二次試験であった。小論文はたしか「自分の好きな映画について論じよ」とかだったと思う。私はなんと映画「ルパン3世カリオストロの城」について映画論をブチ上げる(笑)。そして面接。これがイチバン緊張。自分なりに「ニコニコしてよう」と決めて、終始「にこやかな表情」で面接官に臨んだ。何を訊かれどう応えたかは全部忘れたが(笑)。
二次試験の合格発表の後、帰宅して母に報告したら、母が「受験日と受験票見た時に「ああ、この子は受かったな」って思った」と言ったのをおぼえている。実は私には受験関係のラッキーナンバーというのがあって、高校受験以来、必ずどこかに「9」が入ってたらしいのだ。今回も試験日と受験票のナンバーに「9」がちゃんと入っていて、それで母は思わず笑い、そして密かに安心してたそうだ。私本人はそんなこと忘れてたし考えもしなかったんだけれど、イチバン母は私のことを思って、そして見ていてくれたのだ。
かくして受験は終わり、とんでもない競争率(!)を勝ち抜いて、私は日本大学芸術学部映画学科監督コースに合格、入学となった。・・・まぁ、その後2年間で辞めちゃうんですがね(苦笑)。
まぁ、そんなことをいろいろつらつらと思い出してる冬の日の昼下がりである。ちょっと西に傾いた陽射しの少し黄色味の入ったは、なんかいろんなものを思い出させるようだ。
これからこの時期いろいろ受験とかの人、風邪に気をつけて全力出し切って下さい。結果はどうあれ、やりきった先には必ず何かがあるのですから。まぁ私の体験はなんの参考にも足しにもなりませんが(笑)。